三浦の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

神奈川県三浦市歴史探訪
三浦市の概要
神奈川県南東部、三浦半島の最南端に位置し、三浦海岸を代表とする海水浴場、岩礁の城ヶ島、美しいリアス式海岸の油壷からなる、風光明媚な観光都市です。気候は黒潮の影響で、年間を通じて温暖。三方を取り巻く海など自然条件に恵まれ、農業、水産業、観光が中心産業となっています。市内にある三崎漁港は遠洋漁業の拠点であり、日本有数のマグロ水揚げ港として有名です。また、首都圏の重要な農水産物の生産・供給基地でもあります。内陸では三浦ダイコンやスイカなどの畑作が盛んで、南向き傾斜地では、みかん、イチゴなども栽培されています。さらに、マリンレジャーが盛んな三浦海岸には、夏になると約100万人が訪れるとされ、城ヶ島、油壺、まぐろグルメの三崎下町なども併せると、年間約150万人の観光客が訪れると言います。また、シティ・セールス推進を掲げ、首都圏の観光・レクゾーンとしての振興や、映画やドラマの誘致も政策などを積極的に推し進めています。

三浦のあゆみ
三浦市の歴史は古く、市内には縄文、弥生、古墳時代の遺跡が広く分布しています。

そして、三浦半島を舞台に活躍した歴史の主人公といえば三浦一族。平安時代末期から鎌倉時代、源頼朝を助けて鎌倉幕府を興し、有力御家人として権勢をふるい、和田義盛をはじめとする三浦一族が活躍しました。またこの時代、三崎には、桜、椿、桃の三つの御所が開かれ、源頼朝をはじめ、多くの要人が来遊しました。三浦一族は、平氏の流れをくむ始祖為通(ためみち)が三浦の地を所領としてから、鎌倉幕府創建、北条氏との覇権争い等の動乱を経て、荒井城で敗れた三浦道寸(どうすん)まで、およそ450年もの間、相模の主として君臨していました。頼朝亡き鎌倉の覇権をめぐる北条との対決に破れてなお、270年もの間、相模の地に君臨しましたが、奇しくも同じ北条の名を唱える伊勢新久郎と争うことになり、結果2度も“北条氏”に滅ぼされ、戦国争乱の露と消えたのです。

三浦一族終焉の地となった現三浦市の油壺、起伏に富み入江の多い三崎の地形は、天然の要塞でした。永正13年(1516)新井城(今の油壺一帯)を最後の居城として立てこもった三浦一族は、北条早雲の大軍を相手に3年間にわたる奮戦も空しく、全滅しました。多くの将兵が自刃、討ち死または油壺湾へ投身したと伝えられ、そのため湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったので後世「油壺」といわれるようになりました。

天正18年(1590)になり、徳川家康が関東へ入った際に三浦半島も領地となり、すでに港として発展していた三崎は天領となり、江戸時代は港町としてにぎわいました。そして次第に漁港としての整備が進み、これが近年における遠洋漁業基地としての都市形成の基礎を築いたといえます。

明治になり、町村制施行によって、明治22年(1889)4月1日、三浦郡三崎町、南下浦村、初声村が発足します。その後、昭和15年(1940)4月1日に南下浦村が町制を施行。昭和30年(1955)1月1日に三崎町、南下浦町、初声村が合併して「三浦市」となり、現在に至っています。

さらに現在では、温暖な気候や恵まれた自然環境や様々な観光エリアが充実し、農・水産・観光のまちとして発展してきた一方、漁業・農業が産業の中心であったことから、就業、教育面で横須賀市や京浜地区への流出が著しく見られ、また昼間人口の減少、さらに居住人口も1996年を境に減少に転じ、人口が5万人を割り込んだことから、戸建て住宅の定住者に10万円の奨励金を交付する三浦市定住促進制度などを導入しました。

三浦の名前の由来
三浦市の由来は戦国武将だった三浦義同(道寸)からきているとされています。


三浦の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
三浦市文化財収蔵庫
住所: 三浦市初声町入江146 [地図を見る]
電話番号: 046-888-3403
開館時間: 毎週水曜日 9:00〜16:00
(ただし、見学・研修・資料閲覧・資料借用などは随時申込を受付中)
休館日: 月、火、木、金、土、日曜日及び年末年始(12/29〜1/3)
入館料: 無料







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